疲労の溜まりに溜まった体は鉛のように重く、キーを鍵穴に挿しこみ左へ回す手元だけの動作ですら、酷く面倒で。
玄関へと身を滑り込ませ、すぐに革靴を脱ぐ気になれず閉めたばかりのドアに背を預けて、深く息を吐き出す。
「……疲れた、な」
普段からジムに通い体力はそれなりにあると自負しているし、多少の激務では弱音など出さないが――さすがに、ベッドに行く間もない程のスケジュールは堪える。しばらく頭上の柔らかな光を放つ照明を無意味に眺めてから、ようやく靴を脱ぎ寝室へと向かった。
久々に入るベッドルームは換気をしていないからか空気が澱んでいて、それを不快に思うも今は窓を開ける事すら億劫だ。漆黒の夜空を枠内に収める窓を一瞥してから、私はジャケットを着たままベッドへと倒れ込んだ。
スプリングで一度体が跳ね、胸部が緩く圧迫される。左胸ポケットに携帯電話を入れたままだった。痛い。
「――駄目だな、これは」
思考がだんだん霞の向こうへ去っていく。スーツを脱がなければ、シャワーも浴びたい、色々思う事はあるが、瞼の重さには打ち勝てず視界を手放した。
何も考えられない。今はただ、眠りたい。体がベッドに溶けていくような心地で、眠りに落ちかけたその時。
低いバイブレータの音と共に、胸ポケットが震え始めた。
ゆるゆると自然に上がる瞼。だが取る気はない。もう、本当に疲れているんだ。…などと、震え続ける携帯に反抗してみるも、結局は出るしかないのだが。もしも今日終わらせたばかりの案件に関わる連絡ならばと考えると、出ざるを得ない。
結局は、私もつまらない仕事人間だ。そう自嘲しながらも、私はうつ伏せていた身を転がし仰向けになると携帯を耳にあてた。
「――もしもし、吉羅だ」
『あ…っ、もしもし、わたしです。すみません、夜分遅くに…』
電話の向こうから優しく鼓膜を揺らした声は予想外のもので、私は半分夢の中だった目を見開いた。
あまりに驚きすぎて、言葉が咄嗟に出ない。驚きもあるが、何より、胸が恋しさに締めつけられて。
『その…もう学院にも二週間いらしてないですし…、電話もメールも、三日くらいしていなかったから…お元気かなって、心配になって…。すみません』
そうだ。彼女にもう二週間も会えていない。何故今まで忘れていたんだろう。ベッドに身を預ける前に、連絡しようと思っていたのに。
『…あの…、大丈夫、ですか?お元気ですか?体調、崩してませんか?』
「……、ああ、」
ふがいない。せっかく心配をしてくれているというのに、私はあまりに君の声が久々すぎて、呼吸すら上手く出来ていない。ようやく返せた返事は粗末なもので、それでも、君は安心したように笑うから、……更に、愛おしくなる。
『良かったです。金澤先生も心配してましたよ?忙しくなると、いつもはコンディションに気をつけていても多少無茶するから、って』
「……そうか」
『――それじゃ、切ります。ゆっくり休んで下さいね』
「待ってくれ、ッ」
おそらく私の返事があまりにも素っ気ないからだろう。それに彼女は、多忙な私をいつも気遣い、用件が終わるとすぐに通話を切ろうとするから。今もまた、私が制止しなければあっさりと切れていただろう電話に、私は上体を勢い良く起こした。
「すまない、待ってくれ。…君にまだ時間があるなら、もう少し付き合ってくれたまえ。君の声がもっと聞きたい」
『で、でも、お疲れなんじゃ…』
「先程までは疲れていたよ。ネクタイを解く気力もなくてね、そのままベッドに倒れ込んだ所だった」
『ご、ごめんなさい!もう寝るところだったんですね、っわたしやっぱりもう切り――』
「待ちなさい。まだ話は終わっていない」
本当に、どこまでも優しい人だ。焦る彼女の声に口元を緩ませながら、私は不思議と軽くなった体をベッドから立ち上がらせ、窓際へと移る。
窓の外には数分前と変わらない夜空が広がっているのに、どこか輝いて見えるのは…君のお蔭だろうか。
「……君が、足りなかった」
『理事、長?』
「今すぐ君に会いたい。君の髪を撫でたい。君の頬に口付けたい。君の目を見て、君の声を聞いて、君を抱き締めて、ひたすら君で私を満たして欲しい」
『り、りじっ…!』
どうして二週間も離れていられたのか、不思議な程に君に餓えている。今更ながらにそれを自覚して、自覚すれば、当然我慢出来なくなる。電話越しでは到底足りない。声だけでは、余計にこの我儘を煽るだけだ。
君が好きだ。君が思っている何倍も強く深く、君が好きで、もう自分でも制御出来ない。君に触れたいのに触れられない指先は、温度のないガラスを手持ち無沙汰に撫でた。
もし今、目の前に君がいたなら、衝動的に、まだ感触も知らないその唇を奪ってしまうかも知れない。そう危ぶむ程に今の私は余裕がない。そう思うと自らの愚かさに少々頭が冷めてきて、電話の向こうに気付かれないよう苦笑した。
『……いつか、』
「?」
『いつか、毎晩、理事長をお出迎え出来たら、わたしも理事長も、寂しくないのに』
「………」
『でも、毎日会えても会えなくても、わたしが理事長を想う時間は少なくならないし、気持ちは萎みませんから』
「…ああ、そうだな」
不思議な人だ。
私のストレートな台詞にはいつだって頬を染めて恥じらい、自分も直接的な言葉は言わないというのに、こうして時折、私よりもよほど強烈な言葉を私にくれる。
きっと彼女は彼女の本音を口にしていて、それが私にとっては凄まじい威力を発揮している事など露も気付いていないのだろう。今もまた、私が締まりない顔になっている事を知らないで。
「少し驚いたよ」
『何がですか?』
「一瞬、プロポーズをされたのかと。毎晩出迎えたいとは、つまりそういう事だろう?」
『え?――…ち、ちが…っ!!わ、わたしはただっ!』
いつか、そうなる未来を確信しながら、今はまだ電話越しの君で我慢していようか。
慌てふためく可愛らしい声を左耳に注ぎつつ私は夜空を見上げる。
美しい夜。かつてその光景が想起させていた女性も今となっては胸の奥深くで眠りに就き、ただ唯一の愛しい存在へと想いを馳せる。
だから、もう一度言わせて欲しい。
「――君が好きだよ」
こんなにも。
fin.
甘ったるいふたりを書きたくなった結果がこれです。私的には激甘に入るのですが、何たって甘々を書くのが苦手なもので…。ついギャグとかに逃げちゃうのがだめなんだなこれ。でも今回は逃げなかった!
計算でなく意図的でなく、無意識に癒してくれちゃうヒロインにメロリンメロリンな吉羅でした(笑)またいつかコルダ部屋に移動すると思いますー。
あ、最後の「夜空見て想起してた女性」は美夜姉さんのことです。別に浮気してませんからね吉羅!とかあとがきで補足しないといけないとか、作品が説明不足な証拠ですすみませ…。
とりあえず今日も吉羅が好きだー!!
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