「あと三ヶ月、みたいです」
困ったように微笑む彼女が口にしたのは、世界の終わりか。
「…ごめんなさい、暁彦さんの言う通り、もう少し早く、病院に行けてたら…」
昨晩のテレビ番組の話のように、朝食は何にするかと悩むように。
小首を傾げて、綺麗に笑って、そうして彼女は、私の首にギロチンを落とした。
「…もう、どうしたって、治らないそうです。……わたし」
まだ幼い子供を抱えながら、病院の白いベッドの上で、仕事を放り出して駆けつけた私を出迎えた彼女の優しい笑顔は、自らの残り少なすぎる命の灯をあっさりと口にした。
少し前から彼女は体調が悪かった――らしい。そういえば一度だけ、「頭が痛い」と家事の合間に呟いていたのを聞いた気がする。その時は早く病院に行くよう伝えて、朝から会議で時間がなかった為にすぐ家を出て、帰宅した時には彼女はいつもの笑顔で出迎えてくれた。
彼女が弱音を吐いたのはその一度だけだ。私の前で体調不良を訴えたのは、その一度。
どれほど辛かったのだろう。どれほど痛みを我慢したのだろう。いつだって仕事で家を空けるばかりの私に心配をかけまいと、彼女はいつも気丈に振る舞う女性だった。そうだ、彼女と出逢った時から、そういった気性は全て知っていた筈なのに。
一番近くにいた私が気付いてやれないで、今更、すぐに病院に行かなかった彼女を責められるはずもない。
力なくその場に膝をついた私に、彼女はやはり心配するように眉尻を下げた。――何故、そんな顔を。したたかに打ち据えた私の膝よりも、君の脳の方が、余程、余程。
「………治療、は、」
「手術は、たとえしたとしても、完治はしないだろうって言われました」
「…だと、しても…っ」
「暁彦さん、わたし、残りの三ヶ月はずっと、この子と暁彦さんの側にいたいなって考えてます」
残りの、三ヶ月。
彼女が、彼女自身がそれをさらりと口に出来るのか。
何も分かっていない私達の子どもは、遊んで欲しいとばかりに彼女の艶やかな黒髪を引っ張っている。それを穏やかな顔であやしながら、彼女はやはり穏やかな声音で次いだ。
「…この体をヘンにいじらずに、大切な人たちのそばで、最期まで生きていたいんです」
そう言われて、断れる筈がなかった。
これは彼女の意思で、最期の我儘だから。
――どうして、
腰まで届く黒髪も、透き通るような白い肌も、穏やかに笑む唇も、私を呼ぶ声も何もかもが出会った頃と何一つ変わらないままなのに、何故彼女の命は尽きようとしているのか。
私の罪だ。
生気なく項垂れる様を、青さを滲ませる顔色を、何かに耐えるように引き締められた唇を、救いを求めるような声色を、激務に追われる多忙さを盾に気付いてやれなかった私の、まぎれもない、罪だ。
到底泣けなかった。
死を目前にした彼女が泣かないのに、彼女だけを死の淵へ向かわせている私が泣けるとは思えなかった。
残り二ヶ月半。
彼女は至って普段通りに家事をこなし、限界まで仕事を減らして家にいる時間の多くなった私の隣で、本を読み耽り、オーディオからクラシックを流して聴き惚れるように目を閉じて、毎日毎日を大切に生きていた。
片時も目を離すのが怖かった私は、入浴やトイレや、どうしても出かけなければならない仕事以外は常に彼女の隣にいた。彼女の白い手を、逃がさないとばかりに握っていた。
「い、痛いです、暁彦さん」と彼女が苦く笑っても、離せやしなかった。目を離せば、手を離せば、彼女は雪のように溶けてしまいそうで、花のように散ってしまいそうで、そんな凄まじい恐怖に駆られていた。
彼女よりも私が食欲不振に陥り、みるみる内に体重が減っていった。食べられない食事を、それでも毎日楽しそうに用意してくれている彼女の背中を抱き締め、視覚だけでそれをたいらげた。
「暁彦さん」
時折、私を呼ぶ彼女の声には涙がまじった。決まってそれは寝る間際、彼女が瞼を閉じる刹那に呼ばれる時だった。
――明日も、無事に目覚められるだろうか。
そんな不安をお互いに、毎夜毎夜抱きながら眠りに落ちた。眠れる筈もない。私は一時間毎に目を覚まし、その度に彼女の口元に手を当てて呼吸の有無を確かめた。
生きている。腕の中の彼女は暖かい。そう確認出来て、ようやく私はどっとベッドに体を沈める。そうして疲れた体は眠りに就き、また一時間後に起きるのだ。
残り、二ヶ月。
彼女は一日に何度かの頻度で、私を思い出せなくなった。
私だけではなく、足元にじゃれついてくる子どもも、親しい友人も両親の事まで綺麗さっぱり忘れて、ただぼんやりと空を眺めていつしか眠るといった時間を過ごすようになった。
医者によると脳の腫瘍の影響らしい。その症状が出る度に、嫌でも彼女のタイムリミットが近づいているのだと知らされて、胃が軋んだ。
歩く時にもバランスがとりづらくなり、よく転んだ。記憶がある時は「ごめんなさい、暁彦さん」と、支える私に謝るものの、記憶の無い時はただ中身のない微笑で私を見つめるだけだった。
人形のようだ。まだ錯乱状態に陥って暴れないだけ良かったかも知れない。
ただ、初めて会うかのように私を見る空虚な瞳だけは、とてもではないが耐えられなかった。そのまま二度と思い出さないのではと、彼女が記憶を失う度に、背筋に戦慄が走った。
料理など任せられる状況ではなく、彼女は寂しそうにキッチンを眺めるだけになった。高校時代はあまり料理をしなかった彼女は、私に食べさせたい一心で料理を身につけていた事を思い出した。彼女はただ側にいて、私を呼んでくれるだけでいい。それだけで幸せだと伝えたら、悲しそうに笑った。
残り一ヶ月。
彼女は立てなくなった。支えがあろうとなかろうと、自由に足が動かせなくなった。
その内手も動かせなくなるだろうと医者は言った。それを聞いてからというもの、彼女は毎日のようにヴィオラを奏でるようになった。
ベッドに入ったまま、震える指先はろくに弦も抑えられずに不安定な音を奏でていたが、間違いなく彼女は毎日ジュ・トゥ・ヴを弾いていた。
いつも最後までは弾ききれず、途中でヴィオラを支えきれなくなりぐったりと腕を脱力させて終わってしまう演奏。私は正直、毎日ヴィオラをケースから取り出す彼女を見る度に、もう弾いて欲しくないと思っていた。
命を削りながら弾いているように見えてしまう。額に汗を滲ませて、歯をくいしばりながら、それでも音楽に触れていたいのだろうか。
「お粗末さまでした」
いつも途中で終わってしまう演奏の後、彼女は私に自嘲めいた笑みを向けてそう言う。そんな笑顔は君には似合わない。もっと、もっと最期まで本当の笑顔でいて欲しい。
彼女が楽しそうに笑うならと、私は何でもした。彼女を抱え車に乗り込み、日の出を見に行った朝もあった。初めてのデートで聴きに行ったコンサートと同じ楽団の演奏をまた聴きに行ったりもした。
車椅子の上で、彼女はとても楽しそうに私を見上げた。不運にも出かけた先で記憶を失う時もあったが、それでも彼女は物珍しそうに外界を眺めていた。
――これで良かったのだろうか。
無理矢理にでも治療を受けさせていれば、もしかしたら、彼女は救われたのではないだろうか。
そんな後悔を数えきれない程繰り返した。彼女を愛しているから。ずっと愛していたかったから。
彼女は言った。
「次のこの子のお母さんは、優しくて料理が上手な人に」
初めて彼女の頬を叩いた。例え彼女が命を閉じても、灰になって小さな壺に収まってしまうのだとしても、私は、私の心は、それでも君を誰よりも。
滑らかに歌う昔の君のヴィオラよりも、途切れ途切れに軋む今の君のヴィオラを愛している。
すっかりと痩せ細ってしまった君の体躯も、艶をなくした黒髪も、全ての君を愛している。
そうだ、私は忘れていた。
彼女が消えないように見張って、一分一秒も離れずに側にいたのに、彼女の身を案じる言葉は幾千もかけたのに、何故今まで忘れていたのか。
「愛してる。愛しているよ。ずっと、君だけをずっと、愛している」
分からないなら分かるまで囁こう。死がこの愛を引き裂いた後も、毎日だって伝えてみせる。
「……暗いですね、夕食の支度、しなくちゃ」
「そうだな。何が食べたい?」
「そういえば冷蔵庫の卵、期限がそろそろです」
「ではそれを使おうか」
日の昇ったばかりの朝日が部屋を満たす。
ソファに座って、横たわる彼女の頭を膝に迎えながら、私は彼女の視覚も喪失間近にある事に顔を歪めた。
今の彼女の眼は、朝日すら見られない。きっと私の顔も見えていないだろう。だがそれを不思議とも思っていない彼女に、精神状態さえ危ういのだと知らされる。
カレンダーを見れば、丁度医者に宣告を受けた日から三ヶ月目だった。
――彼女は、起き上がろうとしない。
「…家に預けてばかりで、泣いてないでしょうか」
「明日にでも迎えに行こう。夕飯は久々に三人で」
「そうですね」
子どもはもう長い事、彼女の実家に預けている。最期は二人で過ごしたいと我儘を言わせてもらった。この時が過ぎれば、…私が一人になったら、子どもに離れていた分の愛情も注ぐと、そう誓って。
「暁彦さん」
「何かね」
「…ありがとう、ございます」
力が入らないのか、大きく震えながら私の顔を目指す彼女の左手を取り、頬に当てた。
彼女の手のひらはとても熱い。必死に命を燃やしているようだった。
彼女の閉じられた瞳から一筋の涙が零れ落ち、私の膝を濡らす。君は、ここへ来てようやく泣けたのか。だがそれは弱い私と同じ死を痛む涙ではなく、きっと胸を突く程の幸せの涙だ。
だって、そうだろう?今の君は、とても綺麗に笑っている。
弧を描いた彼女の唇に、キスをした。頬に当てていた彼女の手を離す。重力に従って、ぶらりと落ちた。
「…おやすみ」
今なら…泣いても良いだろうか。
生を閉じた君を抱いて、これからの生を生きる為に、あと少しだけ。
私の涙を許すように微笑み逝った、君の胸を借りて、少しだけ。
fin.
なんでこんなの書いたのかと言いますと、
ハロウィン夢を書いてて煮詰まって
→うわーん!なんかはっちゃけたやつが出来そうだからちょっと落ち着きたい!
→よしめちゃくちゃシリアス書くか
→こんなん出来てもた
という流れです。死ネタあんまり好きじゃないのにー!
でもこのシリアスを書いたおかげで、今ものすごく甘々な吉羅夢が書きたくなってきたのでハロウィン夢は甘いはず!!
来週は沖縄行ったり遙か祭行ったりで忙しいので、出来るだけ今週中に書いて更新しときたい。無理なら更新は11月になるやも…ううう…。
あああ夕夜さんに会いたいー!!次は12月か…まだまだだな…。
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